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お気に入りの一台を見つけて大切に乗っていても、違う車に乗ってみたくなることもありますよね。そんな時には車を買取に出し、買い替えるのも良い方法です。
マイカーという言葉が耳に馴れ、夢が現実になる一歩手前であった。
当時流行語大賞というのがあったら、おそらく「マイカー」は「一億総白痴化」などと並んで上位入賞を争ったにちがいなかろう。
不幸な鳥になったDATの息子たちブルーバードが誕生した当時、日産のクルマにはほとんど「ダットサン」という呼び名がついていた。
ブルーバードも例外ではなく、「ダットサンーブルーバード」という言い方が一般的であった。
日本じゅうのどこでも、ダットサンは日産車を総称しているような呼ばれ方に使われたと考えてもよいだろう。
ダットサンを会社名かと勘違いしていた人も多かったくらいだ。
私か生まれ育った田舎にはそんな人がかなりいた。
「日産=ダットサン」であった。
そのダットサンがいつのまにか日産から消えてなくなってしまった。
団塊の世代くらいまでなら耳に懐かしいが、若い人たちには死んだ名前である。
死語も同然のような話題ではあるが、それをこのまま葬ってしまうわけにはいかない。
なぜならダットサンの謂れから日産のルーツがわかることもあるが、大事なことはもっとほかにある。
それは企業がブランドというものを創造し、育成していくことの大切さを知っていたのかどうかという点である。
つまりブランド管理である。
岡崎市出身で機械のエンジニアであった橋本増次郎が、明治末期の一九一一年、東京の麻布で快進社自働車工場という会社を設立した。
自動車とは言わず自「働」車工場と名付けたところがいかにも明治は遠くなりにけり、という感がある。
その橋本が試作したクルマを、大正三年に東京・上野公園で開催された大正博覧会に出品した。
そのクルマに付けられた名前が「グッド号」である。
グッドというのは三人の名字の頭文字からとったものだ。
橋本は事業資金に行き詰まっていた。
今の時代に当てはめて言えば、海のものとも山のものともわからないベンチャー企業みたいなものだ。
しかし、「面白そうだ。ひと肌脱いでみる価値がありそうだ」そう言って橋本の快進社に三名の出資者が現れた。
田健治郎、青山祗郎、竹内明太郎の三人である。
それぞれの名字の頭文字をとって付けられたのがDATである。
「脱兎のように走る意味にも通じるぞ」そんなことを言ったかどうか、誰かがあとからこじつけたにちがいない。
ただ、次の話は本当のことである。
大正十五年、大阪にあった実用自動車製造社と、快進社を母体にして発展していたグッド自動車商会とが合併し、グッド自動車製造社になった。
このときDATの意味がまったく別の意味に置き換えられている。
すなわち、Durable(頑丈な)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)という意味にすり変えようとしたのだが、そんなものは造る側のひとりよがりにすぎない。
「そんな屁理屈よりもDATの息子、DAT・SONがわかりやすくていいではないか。
ダットソンでいこう」「いや、SONというのは耳ざわりがよくない。
うちのクルマに乗ったら”損をする”みたいに聞こえるじやないか。
いっそのこと、SONをSUNにしてはどうか。
太陽が明るく輝きながら昇るイメージがあるし、ダットサンというのは未来が約束されたクルマという意味にも通じるような気がする」以上がダットサンという呼び方のルーツなのである。
そして一九三三年、グッド自動車と戸畑鋳物が合併、それを母体に鮎川義介が横浜市に資本金一〇〇〇万円で自動車製造株式会社というのを設立、翌三四年に日産自動車に改称されたのである。
ここまでを振り返ってみて、日産からいつのまにか「DATSUN」という商標が立ち消えになったのがどうしても肺に落ちない。
それを名乗ると都合の悪いことでもでてきたのだろうか。
そんなはずはなかろう。
ブランド育成が下手な日本の企業日産はDATの息子たちをもて余したにちがいない。
デキのよい息子たちであった。デキがよすぎてもて余すということもある。
それは日産のもう一つのアイデンテゴアイであった「技術の日産」という言い方をもて余したこととも通じている。
「ダットサン」と「技術の日産」とでは言葉の意味はまるで違う。
しかし会社の主張とか会社の顔ともいうべき代名詞になるような表現は、いずれにしても簡単に放棄したり取り替えたりすべきものではないだろう。
ダットサンにしても、技術の日産にしても、長い年月をかけて言い続け、これらを一般消費者の脳裏に焼き付けるまでにはかなりな投資もしてきているはずである。
それはもう日産にとっては熟成された企業イメージからくる別名でもあったと言ってよい。
考えようによっては、これらはブランド育成の観点からいうと大事な要素である。
ブランドの威力にはどこか神話めいたものが秘められている。
そして神話は過去の歴史と実績の積み重ねの中から生まれるものである。
消費者というのは神話には弱い。
コロリとそれを信じてしまうところがある。
しかし、いったん神話が崩れてしまうと消費者は、すぐにそっぽを向いてしまう。
そうならないために、ブランドをじっくり育て上げ、管理していくことが企業にとっていかに重要課題であるかは言うまでもないことだ。
その点、総じて日本企業はブランド管理に注意を向けてこなかった。
管理がまずいというより、迂閥というか、ないがしろにしてきた。
これはひとり日産に限ったことではない。
他の業種についても大同小異であろう。
同業他社を見回しても似たり寄ったりだ。
これではいけないぞと、ブランド管理をおろそかにしていることに、まっ先に気付いたのが同業では本田技研である。
あの本田にしても、そこに目を向けるようになったのはつい最近のことである。
二〇〇〇年の春、同社の組織に「ブランド管理室」という新しい部署がつくられた。
本田にはこれまで築いてきた輝かしい実績がある。
業績も順風満帆である。
それに加え、今でも教祖のように崇められている創業者の哲学が継承され、経営の中に反映されているものが多い。
並外れた強烈な個性の持ち主であった創業者には、神話めいた話も山ほどある。
会社も若いが同業他社とはひと味ちがうブランドカがある。
フォードの社長ジャックーナッサーも、本田のブランドカは世界でも有数だと認めているくらいだ。
ふり返ってみると、本田宗一郎は企業のブランド育成という点でも天才ではなかったかと思われる。
オートバイのマン島TTレースで完全優勝したり、軽四トラックしか造っていなかった時代にいきなりスポーツカーを売り出すという、周囲の度肝を抜くようなことを平気でやってのけた。
「まさかビールの代わりにガソリンを飲んでるわけではないだろうが、あの人はスピード狂ではないか」まわりからそう言われることにむしろ快感を覚えていたのではないか。
その反面、自動車は人の生命をあやめる危険な乗物であるからと、安全性を最重要視した人でもある。
ブランドカというのは、いろいろなものが積み重なって育つものである。
そこに注意を怠った日産の損失はばかり知れないほど大きなものがある。
世界で最初に自動車を発明したのはカール・ベンツというドイツ人であるというのが定説になっている。
一号車を完成させたのは一八八六年。
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